彼はヒーローじゃない。 試合の時見ていたって、どうもスマートさに欠けるというか、正直カッコ悪い。 綺麗なダンクを決められるわけじゃなし、最後のあたりはフラフラになって真っ青になって。 見ているこっちがヒヤヒヤ、毎回試合が終わって勝ったという喜びよりも、終わった、という安心の方が大きい。 大学への進学だって危ういし、家に遊びに行ってもそっけなく、コーヒーを入れてくれるだけであとは教科書とにらめっこしてる。 解らないところがあると、助けを求めるようにこっちを上目遣いで見てきて、私が知らんふりをすると困ったように、眉間に皺を寄せて、また教科書に視線を戻す。 夜九時くらいになればやっと立ちあがって、一言、駅まで送ってく、とだけ言って自転車で送ってはくれるものの、私とは会話をほとんど交わさず、ぶつぶつ言ってるから聞き耳を立ててみれば、英単語を必死に繰り返している。 コングラッチレーション、とかグラデュエーションとか、とにかく前向きな単語しか繰り返していない。 時折思い出したように アイライク バスケボー とか言ってるけど、それって中学以下でしょ。 はあ、と溜息を吐いて、うなじをつついてみれば、むっとして振り向き電柱にぶつかりそうになる。 「ねえ、しっかりしてよ。 来週模試でしょ。 意地張らずに私のとこの塾来れば?」 「ばっかやろ。 塾なんか行ってられるか。 俺はバスケ部だってあるし・・・」 「もういっそ、勉強に専念しちゃいなよ。」 すると彼は、左右に首を振って無言できっぱり否定する。 何を言っても無駄か。 「三井からバスケ取ったらねー、あいつ自分の中の芯が無くなっちゃうんじゃないかなあ」って木暮君が言ってたけど、そうなのかもしれない。 大学に行ったらバスケができると思うから、苦手な勉強もとりあえず頑張れてるのかもしれないね。 そっと、腰に手を回し、ちょっと力を込めると、彼の身体がびくんと跳ねた。 受験さえ終われば、私だって九時に帰らなくて済むんでしょ? … 「なあなあ、明日さ、S大行く?」 「え? 何でよ。」 「ほら、言ったじゃん。 S大のさ、バスケ部見学申し込んどいたんだ。」 「えー、じゃあマルキュウ行くって言ってたのは?」 「あー・・・」 そう言うと、くるりと彼は背を向けた。 もう!!! 彼女とのデートよりバスケなわけ!? S大なんて誰が行くのよ!! お洒落なカフェテリアも無い、バリバリの体育会系だって話じゃない! 悔しくなって、私はクッションを彼の背中に投げつけたら、すんでのところで避けられた。 当たりなさいよ! そこは! 彼は今度は化学の参考書を上下逆さまにして見ていることに気付いてない。 そりゃ、ベンゼン環は正六角形だから迷うのもわかるけどさあ・・・ 「あれ?」とか言って、今度は右に90度。 あのね、角度変えて見えてくるパズルとかじゃないのよそれは。 しばらくして、わかんね、数学にしようと言って、ドリルを引っ張り出したものの、5分で現文に切り替える始末。 「昔はこんなバカじゃなかったのにな―。」とか言ってる場合じゃないよ。 マジで。 私は諦めてその辺に転がってるバスケ雑誌をめくった。 「私と同じ大学にすればいいのに・・・」 「だってお前のとこ、バスケ部ねーじゃん。」 「あるよ。」 「女子ばっかだろ。」 女子大だしね。 NBAだかなんだか、黒人の大きな選手が見開きで写っている。 名前なんかわからない。 私が知ってる選手と言えば、マイケルジョーダンぐらいだから。 前にマイケルジョーダンの話をちょこっとだけ彼としたことがある。 その時は、眼を輝かせて、ジョーダンの経歴、戦歴を、それこそ立て板に水でスラスラと述べるのにはびっくりした。 なんでそれを英単語に活かさないのよ。 今度は政経にシフトチェンジしている彼に、ねえ、と声をかけると、「コーヒー?」と間の抜けた反応が返ってくる。 「あのさ、明日何時? S大。」 「え? 来んの?」 「だって誘ったじゃない。」 「そりゃそうだけど・・・ なんか嫌そうだったから。」 「本当はマルキュウが良いんだけどね。」 「マルキュウは・・・ 見学終わったら連れてってやんよ。」 「それだと、セールが終わっちゃうんですけど。」 そしたら、参ったなあ、とぼわーっと欠伸をして頭を掻いた。 そして今度は、日本史に取りかかったらしい。 … 「ねえ、あのさあ。 なんでジャージなの。」 私の家まで、自転車で迎えに来た彼を見て、私は本日一番の溜息を吐いた。 しっかりとSHOHOKUと大きなロゴが入っているジャージに、ドラムバック、見学じゃなくて試合に行く趣きだ。 「だって、もしかしたら、ちょっとでもやらしてもらえるかもしれねーじゃん。」 「その意気込みは結構だけど、じゃあ、マルキュウ行くって言ったら? そのカッコで?」 「え? やばかったか?」 私は、雲一つない空を見上げた。 マルキュウにジャージ。 お願い、もう少し世間の目って言うのを気にしてよ。 仕方なく私は荷台に乗ると、彼は地面を勢いよく蹴って、S大へと自転車を走らせた。 体育会系独特の挨拶を交わしながら私と彼はS大の体育館を訪ねた。 「よー、三井ぃ、来たかあ。」 そう言って、彼の背中を小突いている人は、彼の中学の時の先輩らしい。 「あーあ、お前さあ・・老けたよな。」 「老けたって、なんすか。 成長だって言ってくださいよ。」 「いやいや、老けたよ。 さてはなんか悪さしてたな、この野郎。」 「あはは。 まさか。 俺はずっと品行方正な生徒っすよ。」 私は、平気でウソつく彼の過去の所業を全て話してやりたくなった。 「んで、あそこにいるのは、お前の・・コレ?」 先輩が小指を立てて見せる。 「これじゃねえことは確かっすけどね。」と彼が親指を立てて見せた。 素直に認めないのは相変わらずだよね。 いつになったら、ハッキリと彼女だと公言してもらえるのかしら。 「なあなあ、お前どうする? ここに居てもしょうがねーだろうし、しばらく大学ん中うろうろしてろよ。」 私も、それはそうだと思ったし、彼の邪魔もしちゃいけないから、大人しく大学見学に時間を潰すことにした。 … 噂通り、カフェテリアも無く、有ったのはお婆ちゃんが暇そうに座っている購買だけだった。 それよりも何よりも、まず女子の姿をあまり見かけない。 通りすがるのは、声の太い、いかつい男子ばかりだった。 ちょいちょい声をかけてくるのをあしらっているのにも、そろそろ疲れてきたし、体育館に戻ろう。 体育館からは威勢のいい声と、ボールの弾む音が聞こえる。 彼の声も時折聞こえてはくるんだけれど、専門用語(?)を叫んでるせいか、私にはまったくわからない。 重い扉を少し開けて中を覗き込むと、彼が大学生の先輩と混じってボールを追っていた。 じっとその姿に見入っていると、後ろからぽんと大きな手が置かれる。 びっくりして振り向くと、見覚えのある人物が立っていた。 「こんにちは、 君も来てたんですか。」 「あ、おはようございます。 どうして先生がここに?」 「三井君から聞いてませんか。 今日は彼の試験日だって。」 「はあ?!」 今日は見学としか聞いてなかったはずだ。 それに昨夜のあののんびりした感じ。 とても試験前日には見えなかったけど。 「私も心配でこっそり来てしまったんですけれど。 どうやらその心配は無いようですね。」 私はこちらの監督とちょっと話がありますので、と先生はくるりと踵を返して行ってしまった。 なんで、と頭の中がハテナでいっぱいになる。 そんなことなら、マルキュウだなんだと気を遣わせることも無かったのに。 ちゃんと頑張ってね、と言ってあげたかったのに。 なんか・・・ずるいよ。 その時、彼が一回り身体の大きな選手に跳ね飛ばされた。 シュートしようとしたところを、体当たりされたのだ。 身体がズズーッと床を滑り、壁にぶち当たる。 私は思わず息を飲んだ。 大丈夫かな。 心臓がものすごい勢いで、ドキドキいってる。 端で見ていた試験官(らしき人物)が苦い顔をして手元の用紙に何かを書きこむのが見えた。 ちまちまと何かを書きこんでいる様子は、想像したくないけれど、×と書きこんだのではないだろうか? どうか、そうではありませんようにと必死に祈る。 すると、彼が勢いよく立ちあがり、足を踏ん張った。 「今のは申し訳ありません。 俺は大丈夫です。 もう一度やらせてください。」 大丈夫? 背中打ったんじゃない? 痺れてない? 彼は凛と背筋を伸ばして、フリースローのラインに立った。 右手を数回握りなおしてから、ボールを構える。 背中は多分致命傷ほど当たってはいないだろうけど、しばらくは痛いはずだ。 それが僅かでもシュートに影響して・・・ううん、もう考えたくない。 彼は一瞬眼を瞑り、何か祈るようにリングを見上げ、そして放った。 ボールは寸分の狂いもなく、リングを突き抜け、ネットに掠る音だけが体育館の中に響く。 試験官は呆然とリングと、それから彼を見つめた。 彼は、リングに向かって敬礼すると、また元のように持ち場に戻る。 彼の今までのどのシュートが美しかったかなんて言えないけれど、今のは多分、私が知ってる中でも、彼の中でも最高のシュートだったんじゃないかと思う。 夏の彼の試合を私はすべて見たわけじゃない。 けれど一つ一つはちゃんと心に残ってる。 もちろん相手の選手のことも。 県予選の中で、彼がシューターとして一目置いていた選手がいた。 それは、予選の中で惜しくも負け、県優勝を奪われた相手だった。 「あいつのシュートはさ、悔しいけれど、最高だったよ。 やっぱ、俺も3年間ちゃんと続けてればあんなシュート打てたのかなあ」と、しばらくの間彼はぼやいていた。 その後、雑誌にも彼のことは大きく取り上げられていて、そのシュートはシルク、絹に例えられていた。 これって最高の褒め言葉だよな、と彼は何度も何度もその記事を読み返し、溜息を吐いた。 でも、今になってわかる。 彼のシュートは絹じゃない。 そんな物質に例えられるものじゃないってことを。 無理やり例えるなら、そう、「祈り」 かもしれない。 祈りを捧げるように全身全霊を込めて放つ、最高のシュート。 そのあとは、彼のシュートを境にして、まるでゲームが止まってしまったかのように、静かに試合終了の笛が鳴り響いた。 彼も、ほっと安堵したように壁に凭れかかり、私から受け取ったポカリを一気に飲み干している。 「まあー、やるだけやったよな。 俺。」 「試験だなんて。 最初っから言ってくれればいいのに。」 「だって、そんなこと言ったらお前怒るじゃん。『緊張感足りなさすぎ!』って。」 「ほんとに足りないんだもん。 言いたくなるわよ。」 向こうでは監督と、試験官と先生が3人で何かを話し合っている。 「まあ・・・ 後は先生の御威光に頼るっきゃねえかな。」 「きっと大丈夫よ。」 「いや、でもさー。 かなり派手に吹っ飛ばされたし、体力ねーとか思われたらさ。」 「なに、いつもらしくないね。」 「そりゃー、進退懸ってるもんよ。 ことによっては今日から塾通いしなきゃいけねーかも。」 コートの中とは打って変わって、しょげかえっている彼の背中を思いっきりはたいた。 「大丈夫よ。 もしそうなったら、勉強ちゃんと見てあげるわよ。 まずは教科書の正しい向きから教えてあげる。」 彼は大きな溜息と共に、「よろしく頼むよ、先生。」とだけ言って、後は黙り込んだ。 「まあまあ、やるだけやったんだしね。 とりあえず、お疲れ様、かな。」 ゆっくり休んだら? 帰りは私が自転車漕いであげよっか?と提案すると、彼は首を横に振った。 「チャリはよー、駅前に置いて、渋谷行くか。」 「いいよ。 まっすぐ帰ろう?」 彼は、数回瞬きをして、それからゆっくり頷いた。 … 次の日、部活の終わりに先生から呼び出しがあった彼は、顔を赤くしたり青くしたりしながら出てきた。 「どうだったの?」 「とりあえず・・内定・・らしきものは貰った。 明日から大学の方の練習に顔出せって。 けど・・・」 「けど?」 「今度のテスト、マジやばい。 赤点取ったら卒業できねえ。」 結局その日から、彼のお母さん公認の元、学校の卒業試験の日まで、私は泊まり込みで彼の試験勉強を手伝う羽目になった。 END